新野智子:国際平和協力業務に携わる女性たち

国際平和協力業務に携わる女性たち(第7回)

新野智子

新野智子(にいの ともこ)
国連児童基金(UNICEF)パキスタン事務所 レポート・ユニット・チーフ

  • いま休みが取れたら?
    →誰も自分を知らない場所でひとりになりたい。トモコ、トモコって呼ばれない所に行きたいです(笑)。
  • 直したくない癖は?
    →大きい声で話すこと
  • 尊敬する理想像は?
    →薫子さん。国連で勤務していく上で、彼女が私の原点でした。

Q. 国際平和協力本部事務局(PKO事務局)で2011年7月まで国際平和協力研究員として勤務され、現在はユニセフで活躍中の新野さん。小さな頃から国際貢献の道を目指していらっしゃったとか。

たまたま日本ユニセフ協会が小学校をベースに絵はがきを売る活動をしていて、その時、「こんな仕事があるんだ」って。あの頃はもちろん「アドボカシー」っていう言葉は知らなかったけれど、困っている人のために、その状況を説明してあげるような……そういった仕事をしたいと思ったのが小学校1年生、7歳の時だったんです。

Q. 7歳!? 早いですね。 

その後、緊急支援に行きたいって思ったのは、アメリカ・ワシントン州のレーニエ山が噴火した小学校3年生の時。乾パンを買いに走って、自分の古着の靴下を日本赤十字社に送りつけたんです(笑)。そして国連で働きたいって思ったのが高1の時。英語の教科書をパラっと開いたら、「I want to work for the United Nations.」って文章が目に入って、直感的に「これだ!」って(笑)。 

Q. 大学卒業後はアメリカの大学院に留学されて、その後のキャリアの振り出しはどちらだったんですか。

私が留学していた当時、大学院を卒業した人は1年間インターンシップ・ビザが下りて、アメリカにいられたんです。そのインターンが振り出しかな。国連の「Department of Humanitarian Affairs(人道問題局)」という、後にOCHA(国連人道問題調整事務所)に統合された組織で働きました。ちょうどその時、明石康さん((財)国際文化会館理事長)や関薫子さん(OCHA人道問題調整室政策担当官)がいらっしゃった所です。

Q. その後、インド、アフガニスタン、ハイチ、チリ……と、世界各地でキャリアを積まれてきた新野さんですが、2011年7月に独立したばかりの、最近は日本のPKO派遣で注目を集める南スーダンに行かれたご経験はありますか。

ないです。ただ、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のウガンダ事務所で勤務していたときは、難民の7割が、今の南スーダン、当時の南部スーダンから避難して来た方々でした。今は南スーダンに帰っていった人たちです。あの小さかった子どもたちが……と感慨深いものがあります。 

Q. ウガンダでの勤務は、日本にいるとなかなか想像がつきませんが、アフリカ勤務で驚かれたことはありますか?

びっくりしたのは、死があまりにも自分の日常に近かったこと。今と違って、私がいた頃のウガンダは、エイズがまだまだコントロールできていなかった頃で、勤務先の現地スタッフが何人も亡くなっているんです。私のアシスタントも亡くなりました。車で走ると、道端に色々な物が売っているじゃないですか。例えば、椅子だったり、ベッドだったり。そのベッドの横に、棺桶が売っているんです。これは本当にショックでした。

Q. 2011年の7月までは、当事務局の研究員として勤務されていました。日本の「お役所」での勤務に、カルチャーショックはありませんでしたか?

日本ではリーダーシップが取りにくいと感じますね。また、ミーティングの時にただ黙って時間が経っていく、というのも国連ではあり得なくて、職員間の意思疎通にしても、「それって、テレパシ―?」って思ったことがいっぱいありました(笑)。

Q. 新野さんは局内で勉強会を立ち上げるなど、新しい試みにもチャレンジされていました。

国連に戻っちゃうと一人なんですよね。仕事は基本的に一人でするもの。「同期」っていう概念もなくって。私はチームワークとかすごい好きなので、何かみんなで取り組める、みんなのプラスになることをしたかった。PKO事務局は色々な所から、様々な経験を持っている方が集まっているので、皆さんから色々な話を聞けたのは刺激になりました。

Q. 現在、ユニセフのパキスタン事務所で勤務されていますよね。パキスタンには、以前アフガニスタンで勤務されていた時にもよく行かれたそうですが、以前と違いはありますか?

当時はパキスタンからICRC(赤十字国際委員会)の飛行機を使ってでしか、アフガニスタンに入れなかったんです。
イスラマバードは、以前より保守的になりました。以前はなんとなくノースリーブでも歩いていたんですが、今は伝統衣装のシャルワール・カミーズ(注:肌の隠れる長袖の長いブラウスにスラックス)を着ています。イスラマバードに着いたとたんに、上司に買いに行けと助言されて。セキュリティーの概念が変わったんですよね。自分が外国人だとアピールすることが自己防衛にならなくなった。国連車両もUNマークを付けず、目立たないようにしています。

Q. 2011年7月に就任したパキスタンのカル外務大臣は、初の女性外相として注目を集めました。女性の社会進出は進んでいるのでしょうか?

どうでしょうか? パキスタンでは、女性はある程度の年齢になったら一人では外に出なくなるんです。基本的な部分で、女性は自由を奪われていると感じます。彼女たち自身は気がついていないかもしれませんが……。公的な領域では、女性大臣に象徴されるように、一見女性の社会進出が進んでいるように見えても、プライベートな領域ではそうでなかったりと、ジェンダーの問題は複雑ですよ。

Q. 現在、ユニセフではどんな仕事をされていますか?

ドナーから提供のあった資金がどのように使われたのかを報告する、レポート・ユニットという部署でチーフをしています。また自分の本来の仕事の範疇からは外れるのですが、うちのオフィスが大口のドナーから預かっている資金を回す、コーディネーターのような仕事もしています。複数の部署にまたがる案件だと、プロジェクトを上手く回していくために、コーディネーターのような役割が自ずと必要になってきます。その調整を私が一手に引き受けてしまって、大変なことに(笑)。毎日多くを学んでいます。

Q. こぼれたボールを拾い続けているわけですね。

まさに!(笑)。国連の機関は各部署の専門性が高くて、自分の所掌以外の仕事、グレーゾーンに属する仕事は日本人のように進んでしません。日本の文化でいいと思うのは、チームのためにそういったギャップを自発的に埋めようとするところ。私自身、「ギャップ・フィラー」(穴を埋める人)だと思っていますが、日本の国民性に通じるところだと思っています。国連にもっとギャップ・フィラーな日本人が増えれば、国連はもっとうまく回るような気がします。

Q. これから、どのようなキャリアを思い描いていらっしゃいますか。また、新野さんのような生き方を目指す方にメッセージをお願いします。

「ユニセフのスタッフ」や「UNHCRのスタッフ」になりたい、という方は多いと思うのですが、私は小さな頃から「国際人道支援者になりたい」って思い続けてきました。今後も、NYと現場を行き来しながらキャリアを積んでいきたいと思っています。
また、大学でよく学生に向けて話すのは、何か悩んだ時には、自分の好きなことをしていれば全部つながっていくということ。以前このコーナーで、インタビュアーとして大崎麻子さんとお話しした際に、彼女も似たようなことを言っていましたが、戦略的に細かく考えない。私の場合、いつも大体10年計画です。仕事も、なぜかタイミングよく目の前に落ちてくるので、それを一生懸命やっていると、結局、何だかんだで自分のやりたい方向につながっていく。迷った時は自分が好きなことをやっていると間違いない、そう信じています。

新野さんとパキスタン人の同僚の勤務風景

編集後記

インタビュアーとして、本コーナーの連載を担当していた新野さん。今度はインタビューを受ける立場になりましたが、元同僚だけあって話が弾み、どう編集してよいやら悩みました。世界を股にかけて活躍する一方で、仲間を失う悲しみも味わってきた新野さん。一つ一つの言葉が、胸にずしんと響きました。
上の写真は、新野さん(左)とパキスタン人の同僚の勤務風景。中央の女性が着ているのが、インタビューにも出てきた伝統衣装のシャルワール・カミーズ。冬は寒いので、新野さんは着ていないそう。

聞き手: 早瀬 真道、与那嶺 涼子(国際平和協力研究員)
撮 影: 堀川 拓郎

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